心のデボーション5571
「この日すなはち一週のはじめの日の夕、弟子たちユダヤ人を懼るるに因りて、居るところの戸を閉ぢおきしに、イエスきたり彼らの中に立ちて言ひたまふ『平安なんぢらに在れ』」 ヨハネ20:19 大正文語訳聖書
「その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。」 口語訳聖書
「ピースあれかし」
十字架から一週後、弟子たちはユダヤ人の襲撃をおそれて、戸を閉じて息を殺していると、蘇られたイエスがはいってこられ、「安かれ」と言われた。(ヨハネ20:19) 「安かれεἰρήνη」の英語訳は「Peace be unto you」である。主は「ピースあれ(神との間に平和あれかし)」と言われたのである。
(心のデボーション5571)
心のデボーション5572
「たとひ我わが愁を忘れ面色を改めて笑ひをらんと思ふとも」 ヨブ9:27 明治元訳聖書
「たといわたしは『わが嘆きを忘れ、憂い顔をかえて元気よくなろう』と言っても、」 口語訳聖書
「不平を忘れ」
不平を忘れ、憂うつな顔を捨てて、明るくなりたいと思っても、それはできないとヨブはいう。そこで、ヨブは神に「不平をぶちまける」。(ヨブ記11:1) ギリシャ語で「不平γογγυσμός」は「運命を責める」である。不平を忘れるには、運命を責めることをやめ、自分に引き受ける以外にない。人の成熟は、自分が期待しなかったもの、つまり運命とどう折り合うかにかかっている。
(心のデボーション5572)
心のデボーション5573
「萬軍のヱホバかく言たまふこの事その日には此民の遺餘者の目に奇といふとも我目に何の奇きこと有んや萬軍のヱホバこれを言ふ」 ゼカリヤ8:6 明治元訳聖書
「万軍の主は、こう仰せられる、『その日には、たとい、この民の残れる者の目に、不思議な事であっても、それはわたしの目にも、不思議な事であろうか』と万軍の主は言われる。」 口語訳聖書
「不可思議なこと」
主は「わたしはシオンに帰って、エルサレムの中に住む。エルサレムは忠信な町ととなえられ、万軍の主の山は聖なる山と、となえられる」と言われた。(ゼカリヤ8:3) 聞く者の「目に、不思議な事」であるが、主の目に不思議なことなどではない。祝福の約束を「不可思議なこと」と思ってはならぬ。
(心のデボーション5573)
心のデボーション5574
「わがたましひよヱホバを讃まつれ そのすべての恩惠をわするるなかれ」 詩篇103:2 明治元訳聖書
「わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。」 口語訳聖書
「良きことを忘れるな」
ゴルフの練習では、良いショットが出たら、そこで止めるのが上達のコツだそうである。今のをもう一度と続けると次にはミスショットが出たりして、良いショットの感覚が失われてしまうからという。 一日の終わりには、その日「主の良くしてくださったこと」を数えながら眠りにつきたい。気持ちの良い目覚めを約束する。それが、たましいの若さを保つ秘訣だと聖書は教える。
(心のデボーション5574)
心のデボーション5575
「汝の父母を樂しませ 汝を生る者を喜ばせよ」 箴言23:25 明治元訳聖書
「あなたの父母を楽しませ、あなたを産んだ母を喜ばせよ。」 口語訳聖書
「子の務め」
子どもが老いたる父母に差し出さなければならないものは、食糧や暮らしに必要なものではなく、彼らをして父とし、母とせしめることである。それが子たる者の務めであり、それをもって父は楽しみ、母は喜ぶ。
(心のデボーション5575)
心のデボーション5576
「播く者は御言を播くなり。」 マルコ4:14 大正文語訳聖書
「種まきは御言をまくのである。」 口語訳聖書
「御言葉の種」
「知識は獲得するだけでなく、利用せねばならぬ」。(モンテーニュ「エセー」原二郎訳 筑摩書房昭和43年) 獲得するだけで利用しない知識はすぐに失われてしまう。この有益な勧めを聖書に用いることには注意しなければならないことがある。神のことばを「利用」することは信仰ではなく、むしろ御言葉そのものの働きを損なう危険がある。「御言葉は読むだけでなく、その御言葉の自ずからの働きに注視せよ」とすればよいだろうか。
(心のデボーション5576)
心のデボーション5577
「穩かに居りて爭はざるは人の榮譽なりすべて愚なる者は怒り爭ふ」 箴言20:3 明治元訳聖書
「争いに関係しないことは人の誉である、すべて愚かな者は怒り争う。」 口語訳聖書
「心理的飽和」
「美人は飽きるというけど、どう思う」と、テレビのCMを見ていた妻が聞く。同じことを繰り返し見ていると心が飽きて、変化を求めたくなるのを「心理的飽和」という。「飽きる」と言えば「わたしに飽きたか?」と言うし、「飽きない」と言えば「どうせ私は美人じゃない」とくるのはわかっている。こういうときには、「ほどほどの美人は飽きない」と言えばいい。この種の争いはできるだけ避けるのがよく、おだやかに暮らすべきである。
(心のデボーション5577)
心のデボーション5578
「自ら欺くな、神は侮るべき者にあらず、人の播く所は、その刈る所とならん。」 ガラテヤ6:7 大正文語訳聖書
「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。」 口語訳聖書
「侮り」
「神は侮られるようなかたではない」。(ガラテヤ6:7) 「侮るμυκτηρίζω」ということばは「鼻」を意味する言葉から派生し、「鼻を上に向ける、鼻にしわを寄せる」から「馬鹿にするの意味に用いられる。人を愚弄するときのしぐさである。「侮り」はめぐりめぐって元のところに帰ってくる。
(心のデボーション5578)
心のデボーション5579
「なんぢは斷食するとき、頭に油をぬり、顏をあらへ」 マタイ6:17 大正文語訳聖書
「あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。」 口語訳聖書
「苦痛の表現」
ことさらに苦痛の表現を浮かべない人がいる。苦しみを他人に伝える術を学ぶがよい。ことさらに苦痛を訴える人がいる。苦しみを他人に隠す術を学ぶがよい。「ことさら」を除けば魂に自由が宿る。祈りの人が愛する自由である。
(心のデボーション5579)
心のデボーション5580
「これ『誇る者は主に頼りて誇るべし』と録されたる如くならん爲なり」 Ⅰコリント1:31 大正文語訳聖書
「それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。」 口語訳聖書
「主を誇れ」
「主を畏れることは、栄光と誇りであり、楽しみと喜びの冠である」。(旧約聖書外典ベン=シラの知恵1:11 フランシスコ会訳聖書) 「主への畏れ」が栄光とも誇りともなり、それ以外を持たなければ、その信仰は本物である。「誇る者は主を誇れ(καυχάομαι)」。(Ⅰコリント1:31)自慢して(καυχάομαι)よいことである。
(心のデボーション5580)
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