心のデボーション5541
「ペテロ彼に言ふ『なんぢの銀は汝とともに亡ぶべし、なんぢ金をもて神の賜物を得んと思へばなり。』」 使徒8:20 大正文語訳聖書
「そこで、ペテロが彼に言った、「おまえの金は、おまえもろとも、うせてしまえ。神の賜物が、金で得られるなどと思っているのか。」 口語訳聖書
「濡手で粟」
「濡手で粟」といえば、歌舞伎「三人吉三廓初買」のお嬢吉三の台詞「月も朧に白魚の篝も霞む春の空…、浮れ烏のただ一羽塒へ帰る川端で、棹の雫か濡手で粟、思いがけなく手に入る百両…、こいつぁ春から縁起がいいわえ」であろう。何の苦労もなく入る利益のことである。だが、「濡手で掴む粟」が身につくことはめったにない。歌舞伎の「吉三郎という名の三人の盗賊」も最後には刺し違えて死ぬことになる。
(心のデボーション5541)
心のデボーション5542
「かれは燃えて輝く燈火なりしが、汝等その光にありて暫時よろこぶ事をせり。」 ヨハネ5:35 大正文語訳聖書
「ヨハネは燃えて輝くあかりであった。あなたがたは、しばらくの間その光を喜び楽しもうとした。」 口語訳聖書
「手をかざす」
小さな子どもが火のついていないストーブに手をかざしています。そして、「こうしていると、ちょっと、暖かくなる気がする」という。私も、近寄れば少しは暖かくなる気がする、そう思って幾度も火のないストーブに手をかざしたことか。ヨハネは自分を燃やすことによって周辺を熱くした人である。少なくとも、手のぬくもりの分だけストーブも暖まったのだ。
(心のデボーション5542)
心のデボーション5543
「かれら互に言ふ『途にて我らと語り、我らに聖書を説明し給へるとき、我らの心、内に燃えしならずや』」 ルカ24:32 大正文語訳聖書
「彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。 口語訳聖書
「鍋の肉」
「鍋の中の味をみようとするのには、鍋の中の肉を全部食べる必要はない」という言葉がある。その通りで、肉の味を見るたびに鍋の肉を全部食べたのでは身が持たない。しかし、「肉の一片」を食べたからといって「鍋の全全部」が判ったというのは間違いである。少量の情報から全体を把握する必要は常にあるものの、そのリスクを忘れてはなるまい。「鍋」にはネギだの豆腐だの肉以外のものが色々あって、砂糖や醤油や塩が加えられて肉が味付けられているのだ。私は聖書を読むとき、この話を思い出す。
(心のデボーション5543)
心のデボーション5544
「この故に互に罪を言ひ表し、かつ癒されんために相互に祈れ、正しき人の祈ははたらきて大なる力あり。」 ヤコブ5:16 大正文語訳聖書
「だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。」 口語訳聖書
「いやしの力」
いつになっても、きれいごとのつき合いしか求めない人もいる。線を引いて、そこから一歩も入ろうとしないし、入ってきて欲しいとも思わないようだ。親しくなるのが恐いのかもしれない。しかし、傷をいやしてくれるのは、その親しさではないか。傷つくのを恐れて閉じこもるよりも、傷ついても線を越える方がずっと楽しい。親しさをいやす力に変えるために、私たちは祈るのである。
(心のデボーション5544)
心のデボーション5545
「我をなんぢの眞理にみちびき我ををしへたまへ 汝はわがすくひの神なり われ終日なんぢを俟望む」 詩篇25:5 明治元訳聖書
「あなたのまことをもって、わたしを導き、わたしを教えてください。あなたはわが救の神です。わたしはひねもすあなたを待ち望みます。」 口語訳聖書
「どんな不本意なことでも」
フロイトは「どんな不本意なことでも、起ってしまったことは引き受けなければならない」と言う。それは現実や自己を受け入れるために重要な態度である。そのとき、「完全に理解したり、受け入れることの難しいことがあるという事実」があることを忘れてはならない。人はそのようにして、「不本意なこと」への揺れ動く対応を通して身に引き受けていくようだ。
(心のデボーション5545)
心のデボーション5546
「なんぢら眼をあげて高をみよ たれか此等のものを創造せしやをおもへ 主は數をしらべてその萬象をひきいだしおのおのの名をよびたまふ 主のいきほひ大なり その力のつよきがゆゑに一も缺ることなし」 イザヤ40:26 明治元訳聖書
「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。主は数をしらべて万軍をひきいだし、おのおのをその名で呼ばれる。その勢いの大いなるにより、またその力の強きがゆえに、一つも欠けることはない。」 口語訳聖書
「イソップの狐」
イソップの狐がある日羊の群れの中に入って、子羊を可愛がる真似をした。すると犬が狐の魂胆を見破り、「お前にも、犬の可愛がり方を教えてやろう」と脅す。(「イソップ寓話集」36 山本光雄訳 岩波書店1942/2) しかし、狐が子羊を可愛がる真似をしているうちに、本当に可愛いいと思うようになったとしても、犬が狐にかける言葉は変わらないだろう。イソップの「狐はどこまでいっても狐」の世界は教訓にみちているが、狐にとっては救いがない。
(心のデボーション5546)
心のデボーション5547
「かつまた我目は憂愁によりて昏み 肢體は凡て影のごとし」 ヨブ17:7 明治元訳聖書
「わが目は憂いによってかすみ、/わがからだはすべて影のようだ。」 口語訳聖書
「自分から逃げない」
相手が風邪をひいて熱があるのに、何でもないと無視しようとする人がいる。他人の悲しいことやつらいことに 全く耳をかそうとしない。心が冷たい人というよりも、悲しみに立ち向かう方法がわからないため、つらいことにかかわりたくないのだ。もしかすると、その人自身に何かもっと大きな悲しみが隠されていて、その目がかすんでいるのかもしれない。人の悲しみを理解するには、「自分」から逃げないことだ。
(心のデボーション5547)
心のデボーション5548
「義者の途は旭光のごとし いよいよ光輝をまして晝の正午にいたる」 箴言4:18 明治元訳聖書
「正しい者の道は、夜明けの光のようだ、いよいよ輝きを増して真昼となる。
「醒める」
「距離というものは、立ち止まって測る人に対して現れるのだ。そして、比較がなければ何人にとっても距離はない」。「もし全く動かすにいれば、眼を見開いていても始まるまい」。「行動しない人は眠るのだ」。(アラン「思想と年齢」角川文庫882 昭和30/6) 人はどのようにしてこの眠りから 醒めるのか?
(心のデボーション5548)
心のデボーション5549
「なんぢは斷食するとき、頭に油をぬり、顏をあらへ」 マタイ6:17 大正文語訳聖書
「あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。」 口語訳聖書
「葬りの備え」
処刑の直前に、ベタニアのシモンの家で、マリヤはイエスの頭に「香油」を注いだ(マタイ26:6-12)。それは「葬りの備え」を意味した。それゆえに、嘆きの日には断食し、「頭に油をつけ、顔を洗う」のである。
(心のデボーション5549)
心のデボーション5550
「然れど聖靈なんぢらの上に臨むとき、汝ら能力をうけん、而してエルサレム、ユダヤ全國、サマリヤ、及び地の極にまで我が證人とならん』」 使徒1:8 大正文語訳聖書
「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。」 口語訳聖書
「聖霊の力」
聖霊が与える「力」は、「キリストの証人となる」ための「力δύναμις(原動力、能力、才能、権力、影響力)」である。この「力」によらずして、人はキリストの証人にはなり得ない。証しし給うのは聖霊である。
(心のデボーション5550)
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