心のデボーション5421
「人の心にある謀計は深き井の水のごとし 然れど哲人はこれを汲出す」 箴言20:5 明治元訳聖書
「人の心にある計りごとは深い井戸の水のようだ、しかし、さとき人はこれをくみ出す。」 口語訳聖書
「深い井戸」
人の心は「深い井戸の水のようだ」、「さとき人はこれをくみ出す」。(箴言20:5) しかし、井戸は深く「עָמֹק」(底知れない深さ)、汲み切れるものではない。
(心のデボーション5421)
心のデボーション5422
「この故に汝らに勸む、我に效ふ者とならんことを。」 Ⅰコリント4:16 大正文語訳聖書
「そこで、あなたがたに勧める。わたしにならう者となりなさい。」 口語訳聖書
「修正」
間違ったら、そのつど修正すれば良い。しかし、実際にその修正がうまくいかないのは、自分が間違ったと認めるのがことのほか難しいからではないか? 負けた試合は一刻も早く忘れたいものだ。しかし、本当の勝負師はどこで自分が負けたのかをつきとめなければ、その試合を閉じない。どこで間違ったかをつきとめなければ、その日を閉じないことだ。
(心のデボーション5422)
心のデボーション5423
「幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり。」 マタイ5:3 大正文語訳聖書
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」 口語訳聖書
「貧しき者」
「のろまで、助けを必要とし/力は乏しいが、貧しさなら有り余る人もいる。/しかし、主の目は、慈しみ深く彼に注がれ/主は、彼を惨めな境遇から引き上げて、高めてくださった。そこで、多くの人々は彼を見て非常に驚いた」。(旧約聖書外典ベン=シラの知恵12:12-13新共同訳聖書) 「のろまで、助けを必要とし/力は乏しいが、貧しさなら有り余る人」とは自分のことだが、主は確かに「惨めな境遇から引き上げて、高めてくださった」。主にある者でこの証を持たない人はいない。
(心のデボーション5423)
心のデボーション5424
「惰者の情慾はおのれの身を殺す 是はその手を肯て働かせざればなり」 箴言21:25 明治元訳聖書
「なまけ者の欲望は自分の身を殺す、これはその手を働かせないからである。」 口語訳聖書
「出し惜しみ」
なまけ者は永遠の傍観者だ。人が心を合わせて働くときにも、自分は何一つ出そうとしない。出し惜しみをする人は、出すタイミングをはかっているのかもしれない。最高のタイミングで自分を売り込もうとする。しかし、彼は自分の「欲望」に殺されている。「最高のタイミング」はいつになってもおとずれない。人は出し惜しむことによって、もっと大きな損をする。
(心のデボーション5424)
心のデボーション5425
「彼ら王の言をききて往きしに、視よ、前に東にて見し星、先だちゆきて、幼兒の在すところの上に止る。」 マタイ2:9 大正文語訳聖書
「彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。」 口語訳聖書
「アリアドネの糸」
ギリシャ神話のアテナイの王子テセウスが怪物ミノタウロスを退治するために迷路に入らなければならなくなった時、少女アリアドネが迷路に糸を張りながら奥へ進み、ミノタウロスを倒した後は、その糸をたどって戻ればよいと教えられ、その通りにしたところミノタウロスを倒して帰還することができた。そこから、非常に難しい状況から抜け出るための「道しるべ」を「アリアドネの糸」という。怪物の居所まで導き、そこから引き上げる道を教える糸である。
(心のデボーション5425)
心のデボーション5426
「されど汝は何事にも愼み、苦難を忍び、傳道者の業をなし、なんぢの職を全うせよ。」 Ⅱテモテ4:5 大正文語訳聖書
「しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。」 口語訳聖書
「塗炭」
「塗炭の苦しみ」の「塗炭」は「泥にまみれ火に焼かれる」で、「はなはだしい苦しみ、辛酸をなめる」の意。
中国「書経」から来た言葉である。「塗炭」は一夜にして襲い掛かることもある苦しみであり、襲われた人の回復は容易ではない。
(心のデボーション5426)
心のデボーション5427
「エフライムよ我いかで汝をすてんやイスラエルよ我いかで汝をわたさんや我いかで汝をアデマのごとくせんや爭でなんぢをゼボイムのごとく爲んやわが心わが衷にかはりて我の愛憐ことごとく燃おこれり」 ホセア11:8 明治元訳聖書
「エフライムよ、どうして、あなたを捨てることができようか。イスラエルよ、どうしてあなたを渡すことができようか。どうしてあなたをアデマのように/することができようか。どうしてあなたをゼボイムのように/扱うことができようか。わたしの心は、わたしのうちに変り、わたしのあわれみは、ことごとくもえ起っている。」 口語訳聖書
「和解の手」
ホセアは「夫に愛されていながら姦通している妻ゴメル」をさがして、買い戻す旅に出る。離れていこうとするものを、どこまでも、見捨てないのが「愛」である。和解の手は、いつも、神の方から差し出される。神は私を悲しみ、ついに、私を見つけ出してくださった。私はだれをさがして旅に出るのだろうか? さがし出すまで、歩き続けよう。主が私と一緒に行かれる。
(心のデボーション5427)
心のデボーション5428
「されど我は汝らに告ぐ、惡しき者に抵抗ふな。人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ」 マタイ5:39 大正文語訳聖書
「しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」 口語訳聖書
「報一矢」
「報一矢」は攻撃に対して一本の矢を射返すことで、効果的な一言の反論がそれである。だが、「報一矢」はあまり上手くやらないことだ。一矢とはいえ、相手の急所を射抜くこともあるからだ。それへの反撃は激烈なものになりかねない。相手を傷つけない反論が望ましいが、とても難しい。
(心のデボーション5428)
心のデボーション5429
「汝等もし人の過失を免さば、汝らの天の父も汝らを免し給はん」 マタイ6:14 大正文語訳聖書
「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。」 口語訳聖書
「人々(人間、人類)」
しばしば、我々は知らずして「人々としての罪」を犯す。「人々(人間、人類)」として犯した罪は、「人々(人間、人類)」として赦されなければならない。
(心のデボーション5429)
心デボーション5430
「我らの受けし靈は世の靈にあらず、神より出づる靈なり、是われらに神の賜ひしものを知らんためなり。」 Ⅰコリント2:12 大正文語訳聖書
「ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。」 口語訳聖書
「タブラ・ラーサ」
「タブラ・ラーサ(ラテン語tabula rasa)は「白紙状態」の意で、蝋をひいた書字版を消して、何も書き込まれていない状態をいう。アリストテレス、トマス・アクィナスは、人間の心は生まれたときには「何も書かれていないきれいな石板のようなもの」であり、経験や感覚を通じて知識が得られると考えた。「タブラ・ラーサ」はその後、心理学や認知科学、発達科学、哲学などで様々に解釈されより複雑に再検討されている。
人間は全くの白紙ではなく、経験や感覚を通じて自己を形成すべく、多くの書き込みのもとに生まれ、自己を形成していくのではないか。その意味で人は常に「タブラ・ラーサ」である。
(心のデボーション5430)
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