心のデボーション521

デボーション1
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心のデボーション5201

「たれかおのれの過失をしりえんや ねがはくは我をかくれたる愆より解放ちたまへ」 詩篇19:12 明治元訳聖書

「だれが自分のあやまちを知ることができましようか。どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。」 口語訳聖書

 「駟(シ)」

「一言出口駟不及舌(たった一言でも、誤った言葉を言えば、アッという間に拡がり、「駟(4頭立ての馬車)」で追いかけても追いつかない)」。「それならしゃべらなければ良い」わけではない。誤って出た言葉は4頭立ての馬車で追いかけ、境まできたら、あくまで追いかけることを止めて、引き返し、「駟で追いかける必要のない新しい言葉」を語るがよい。

(心のデボーション5201)

心のデボーション5202

「斯く汝らも今は憂あり、されど我ふたたび汝らを見ん、その時なんぢらの心よろこぶべし、その喜悦を奪ふ者なし。」 ヨハネ16:22  大正文語訳清書

「このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない。」 口語訳聖書

 「人面石」

石器時代の遺跡から、何のために使ったかわからない石が出てくることがある。もともとそこにあったのではなく、住人がどこからか拾い集めた石であるのは明らかだ。ある考古学者は、その石はどこか人の顔に似ていると指摘する。石器時代の人々は亡くなった人の面影を求めて石を拾い集めたのだろうか。それとも、知人の顔をした石と、おしゃべりしたのだろうか。一つか二つ、そんな石が手元にあってもいい。

(心のデボーション5202)

心のデボーション5203

「太初より有りし所のもの、我等が聞きしところ、目にて見し所、つらつら視て手觸りし所のもの、即ち生命の言につきて、」 Ⅰヨハネ1:1 大正文語訳聖書

「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について――」 口語訳聖書

 「つらつら見る」

「いのちのことば」についてヨハネは「目で見たもの、よく見て手でさわった」という。「目で見たもの、よく見て」は「目にて見し所、つらつら視て手觸りし所のもの」大正文語訳聖書、「我等の聞きし所、目にて見し所、熟眺めて手にて扱ひし所」ラゲ訳聖書、「目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの」新改訳聖書、「私たちが自分〔自身〕の目で見たことのあるかた、私たちが〔自分で〕じっと見つめ、また自分〔自身〕の手でさわったことのあるかた」詳訳聖書(いのちのことば社)。「目で見る、じっと見る」は自分の目で見、自分の目でつらつら見る(途切れなく見続ける)」ことである。

(心のデボーション5203)

心のデボーション5204

「エフライムよ我いかで汝をすてんやイスラエルよ我いかで汝をわたさんや我いかで汝をアデマのごとくせんや爭でなんぢをゼボイムのごとく爲んやわが心わが衷にかはりて我の愛憐ことごとく燃おこれり」 ホセア11:8  明治元訳聖書

「エフライムよ、どうして、あなたを捨てることができようか。イスラエルよ、どうしてあなたを渡すことができようか。どうしてあなたをアデマのように/することができようか。どうしてあなたをゼボイムのように/扱うことができようか。わたしの心は、わたしのうちに変り、わたしのあわれみは、ことごとくもえ起っている。」 口語訳聖書

 「たぎる思い」

一人の人と深くつき合うと、その人の嫌な面も知ることになる。知りたくないことを知ってしまった後に、それでもなお、好きといえるかどうかで、その後のかかわりが変わってくる。愛はその人に何を見ても、内に熱く沸き返る思いを消すことができない。愛はぬるさを嫌い、たぎる思いで、人をもてなす。しかも、その熱さで相手を傷つけることもない。ホセアはこの愛を神に見ている。

(心のデボーション5204)

心のデボーション5205

「願はくは憐憫と平安と愛と、なんぢらに増さんことを。」 ユダ1:2  大正文語訳聖書

「あわれみと平安と愛とが、あなたがたに豊かに加わるように。」 口語訳聖書

 「あわれみ」

「あわれみと平安と愛ἔλεος ὑμῖν καὶ εἰρήνη καὶ ἀγάπη」が「あなたがたに豊かに加わるようにπληθυνθείη」。

「あわれみἔλεος」は「恵み、慈悲、善意、いたわり」が「ますます、豊かに与えらえますように(「πληθύνω」一杯にはびこりますように)」。

(心のデボーション5205)

心のデボーション5206

「我も凡ての事を最初より詳細に推し尋ねたれば、」 ルカ1:3  大正文語訳聖書

「テオピロ閣下よ、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、ここに、それを順序正しく書きつづって、閣下に献じることにしました。」 口語訳聖書

 「一五一十(一伍一什)」

「一五一十(一伍一什)」は物事を、1,5,10と数を数えていくように、すべての詳しい事情を、最初から最後までを仔細漏らさず調べることをいう。ルカは主イエス・キリストの福音の「一五一十」を語ろうとする。

(心のデボーション5206)

心のデボーション5207

「主ヱホバ言たまふ我が之を爲は汝らのためにあらず汝らこれを知れよイスラエルの家よ汝らの途を愧て悔むべし」 エゼキエル36:32  明治元訳聖書

「わたしがなすことはあなたがたのためではないと、主なる神は言われる。あなたがたはこれを知れ。イスラエルの家よ、あなたがたは自分のおこないを恥じて悔やむべきである。」 口語訳聖書

 「腐植土」

わが家では生ゴミは大型のポリ容器に放り込む。その上に少々の土を置き、フタをして時々かきまぜてやれば、やがて上等の腐植土ができる。そのままではだめで、腐らせて土に戻さなければ肥料にはならない。恥じることも又、自分を腐らせる。その腐れを受け入れるなら、いのちの元肥になる。「腐れ」はいやな臭いを出すが、出来上がった腐植土にその臭いはない。

(心のデボーション5207)

心のデボーション5208

「天地は過ぎゆかん、されど我が言は過ぎゆくことなし」 ルカ21:33  大正文語訳聖書

「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない。」 口語訳聖書

 「神のことば」

「天地は滅びるであろう(παρέρχομαι「過ぎ去る」)。しかしわたしの言葉は決して滅びる(παρέρχομαι「過ぎ去る」)ことがない。」 たとえ「天地」が「なくなる、滅びる」とも、神の真理のことばは「なくなり、滅びる」ことがない。

(心のデボーション5208)

心のデボーション5209

「この故に汝らは斯く祈れ。『天にいます我らの父よ、願はくは御名の崇められん事を』」 マタイ6:9 大正文語訳聖書

「だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。」 口語訳聖書

 「神の御名を崇める」

「名ὄνομα」はそのあらわすところの全体を指す。「神の御名を崇める」は「神の神たることの全体を崇める」こと。その時、そこに人の人たる全体が現れる。人の人たることが否定される状況は最も礼拝に遠い。

(心のデボーション5209)

心のデボーション5210

「『人もし監督の職を慕はば、これよき業を願ふなり』とは、信ずべき言なり。」 Ⅰテモテ3:1  大正文語訳聖書

「もし人が監督の職を望むなら、それは良い仕事を願うことである」とは正しい言葉である。」 口語訳聖書

 「仕事」

「人を幸福にするのは仕事の種類ではなくて、創造と成功の喜びである。およそ存在する不幸中での最大の不幸は、仕事のない生活、生涯の終わりにおいて仕事の成果を持たない生活である」。(ヒルティ「幸福論」秋山英雄訳 角川文庫865 昭和29年11月) 人の最大の仕事は神にお仕えすることであろう。そこにでは「創造と成功の喜び」が尽きることが全くない。

(心のデボーション5210)

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