心のデボーション514

デボーション1
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心のデボーション5131

「元始に神天地を創造たまへり」 創世1:1  明治元訳聖書

「はじめに神は天と地とを創造された。」 口語訳聖書

 「天と地」

「天(שָׁמַיׅם)」(LXXοὐρανός)は「大空、天空」を意味し、「神の玉座、臨在の場」であり「主はその聖なる宮にいまし、主のみくらは天にあり、その目は人の子らをみそなわし、そのまぶたは人の子らを調べられ」、「天は神の義をあらわし、神はみずから、さばきぬしである」。(詩篇11:4; 50:6; 103:19)

「天と地は主をほめたたえ、海とその中に動くあらゆるものは主をほめたたえよ」。(詩篇69:34)もろもろの出来事は、見える事柄と見えぬ事柄からなり、互いを通じて神を賛美するのである。神は「新しい天と、新しい地とを創造」され、「さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない」(イザヤ65:17)からである。

(心のデボーション5131)

心のデボーション5132

「アブラム九十九歳の時ヱホバ、アブラムに顯れて之に言たまひけるは我は全能の神なり汝我前に行みて完全かれよ」 創世17:1  明治元訳聖書

「アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、/「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」 口語訳聖書

 「冷え」

アブラハムは九十九歳の老人になっていた。年寄りは「冷え冷えした人間だ」とある人は言う。いつも何かを我慢している、一日一日辛抱しながら冷えていくのが老人だと言う。アブラハムにも、この「冷え」はあった。アブラハムに神は「わたしは全能の神である」と語られる。「全能の神」とは人が自らの弱さの中で受ける神の御名であった。アブラハムは冷えていく九十九歳の身体に神の全能を受け取ったのである。

(心のデボーション5132)

心のデボーション5133

「なんぢ明日のことを誇るなかれ そは一日の生ずるところの如何なるを知ざればなり」 箴言27:1  明治元訳聖書

「あすのことを誇ってはならない、一日のうちに何がおこるかを/知ることができないからだ。」 口語訳聖書

 「レレクトロン」

古代ギリシャ語で「琥珀」は「エレクトロンἤλεκτρον」と呼ばれた。紀元前600年頃のギリシャ人は、琥珀を布でこすると、軽い毛の切れ端などを引き寄せることを観察して知っていた。19世紀に、それが静電気であることがわかり、「電気electricity」の語源となったのである。

古代人は痛風の治療に生きたシビレエイを用いるなどして、知らずに「電気」を痛みの治療に用いたのである。人間は、すべてを知らず、知らないままに、その働きを受け取るのである。

(心のデボーション5133)

心のデボーション5134

「モーセ、ヱホバに呼はりしにヱホバこれに一本の木を示したまひたれば即ちこれを水に投いれしに水甘くなれり彼處にてヱホバ民のために法度と法律をたてたまひ彼處にてこれを試みて」 出エジプト15:25  明治元訳聖書

「モーセは主に叫んだ。主は彼に一本の木を示されたので、それを水に投げ入れると、水は甘くなった。その所で主は民のために定めと、おきてを立てられ、彼らを試みて、」 口語訳聖書

 「さわし柿」

柿に渋と甘がある。どちらが甘いかといえば、それは渋だ。もちろん、渋を抜く必要がある。焼酎をふりかけてビニール袋に入れておけばよく、ぬるま湯に二・三日つけておく方法もある。柿の渋を抜くことを「さわす」と言い、そうした柿を「さわし柿」と呼ぶ。はじめから素直に甘い人よりも、一度、渋の抜けた人の方が味わい深いかもしれない。問題は、人の場合、どうさわしたらよいかで、人は焼酎を吹きかけたくらいでは渋は抜けない。

(心のデボーション5134)

心のデボーション5135

「イスラエルの子等のエジプトに至りし者の名は左のごとし衆人各その家族をたづさへてヤコブとともに至れり」 出エジプト1:1  明治元訳聖書

「さて、ヤコブと共に、おのおのその家族を伴って、エジプトへ行ったイスラエルの子らの名は次のとおりである。」 口語訳聖書

 「イスラエル」

出エジプト記は、ヤコブと共にエジプトに渡った70人のヤコブの家族(創世46:3-27)を記すところから始まる。それは出エジプト記が創世記に続く神の救済の書であることを示すのである。沿いここで、ヤコブの子ら70人は「イスラエル(יִשְׂרָאֵ֔ל)」と呼ばれる。「イスラエル(יִשְׂרָאֵ֔ל)H3478」(LXXΙσραηλ)は、ヤコブがヤボクの渡しで神と格闘したときに与えられた名で「神と争う」の意味(創世32:28)であるが、本来は「神は支配し給う、神が統べおさめ給う」の意である。「神と争う者」を「神は支配し給う」のである。

(心のデボーション5135)

心のデボーション5136

「イエス・キリストの僕また使徒なるシメオン・ペテロ、書を我らの神および救主イエス・キリストの義によりて、我らと同じ貴き信仰を受けたる者に贈る。」   Ⅱペテロ1:1  大正文語訳聖書

「イエス・キリストの僕また使徒であるシメオン・ペテロから、わたしたちの神と救主イエス・キリストとの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を授かった人々へ。」 口語訳聖書

 「同じ尊い信仰」

信仰は、使徒に与えられたと「同じ尊い信仰」が、すべての救主イエス・キリストにある者に与えられる。「同じἰσότιμος」は「同じ重さの」から、「同じ価値の、同種の、同様な」のい。使徒も信徒も「同じ価値の、同種の、同様な」義にあずかるのである。

(心のデボーション5136)

心のデボーション5137

「もろもろの國はなんぢの義を見 もろもろの王はみななんぢの榮をみん 斯てなんぢはヱホバの口にて定め給ふ新しき名をもて稱へらるべし」 イザヤ62:2  明治元訳聖書

「もろもろの国はあなたの義を見、もろもろの王は皆あなたの栄えを見る。そして、あなたは主の口が定められる/新しい名をもってとなえられる。」 口語訳聖書

 「新しい名」

自分が人間であることを認めるのは簡単でも、他人を自分と同じ人間と認めるのは難しいものだ。「他者」とは、「内なるもう一人の私」である。神は「新しい名」をもって私を呼ばれる。私も「新しい名」で「もう一人の自分」に呼びかける。「新しい名」を知ってから、「私のうちにあなたがいる」ことがつらくなくなった。「新しい名」とは、元からある真の名である。

(心のデボーション5137)

心のデボーション5138

「太初より有りし所のもの、我等が聞きしところ、目にて見し所、つらつら視て手觸りし所のもの、即ち生命の言につきて、」 Ⅰヨハネ1:1  大正文語訳聖書

「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について――」 口語訳聖書

 「初めからあったもの」

「初めからあったもの、すなわち、いのちの言」は、「初めからいますかた」すなわち、「神御自身」を見る。そして「主がそのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わたしを造られた」と知るのである。自らに「主の業」を見出す者の幸いは言葉に言い尽くせない。

(心のデボーション5138)

心のデボーション5139

「イエス・キリストの僕にしてヤコブの兄弟なるユダ、書を召されたる者、すなはち父なる神に愛せられ、イエス・キリストの爲に守らるる者に贈る。」 ユダ1:1  大正文語訳聖書

「イエス・キリストの僕またヤコブの兄弟であるユダから、父なる神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人々へ。」 口語訳聖書

 「見守り」

「ヤコブの兄弟ユダ」は、イエスを裏切り敵に売り渡した、自分と同じ名をもつ「イスカリオテのユダ」を思わずにはいられなかったのではないか。自身をふくめ、手紙を受け取る人々を「父なる神に愛され、イエス・キリストに守られている召された者」と呼ぶ。「守られているτηρέω」は「見守る、見張る、保つ」の意。使徒として信仰を保つことが出来たのは、神の愛と、イエス・キリストの「見守り」の故であるとの思いが伝わる。

(心のデボーション5139)

心のデボーション5140

「これイエス・キリストの默示なり。即ち、かならず速かに起るべき事を、その僕どもに顯させんとて、神の彼に與へしものなるを、彼その使を僕ヨハネに遣して示し給へるなり。」 黙示1:1 大正文語訳聖書

「イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。」 口語訳聖書

 「イエス・キリストの黙示」

「イエス・キリストの黙示」は、特殊な霊的経験によって解釈されるのではない。「黙示ἀποκάλυψις(神の奧義」は「啓示によって知らされる」のであって、「あなたがたはそれを読めば、キリストの奥義をどう理解するかがわかる」からである。(エペソ3:3)

(心のデボーション5140)

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