心のデボーション507

デボーション1
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心のデボーション5061

「キリスト・イエスの僕たる我ら、パウロとテモテと、書をピリピにをるキリスト・イエスに在る凡ての聖徒、および監督たちと執事たちとに贈る。」 ピリピ1:1  大正文語訳聖書

「キリスト・イエスの僕たち、パウロとテモテから、ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ。」 口語訳聖書

 「神の僕」

「キリスト・イエスの僕たちδοῦλοι χριστοῦ ἰησοῦ」とは「この書の言葉を守る者たち」(黙示22:9)である。「守るτηρέω」は「見張る、番をする、見定める、保つ」の意。神の御言葉を終りまで見張り、守り、見定める者が「神の僕」である。

(心のデボーション5061)

心のデボーション5062

「我かれらに唯一の心を與へ新しき靈を汝らの衷に賦けん我かれらの身の中より石の心を取さりて肉の心を與ヘ」 エゼキエル11:19  明治元訳聖書

「そしてわたしは彼らに一つの心を与え、彼らのうちに新しい霊を授け、彼らの肉から石の心を取り去って、肉の心を与える。」 口語訳聖書

 「石の心」

「石の心」とは、肩をいからせ耳をふさいで聞こうとしない心である。常に相手より優位に立とうとして、打たれるより先に打つことばかりを考える。しかし、その優越意識は劣等意識の裏返しでしかない。そこをつかれると、もろく崩れる弱さもある。「肉の心」とは「人の心」のことで、自分自身への優しさに満ちている。不安におびえて人を攻撃することも、自分の弱さを恥じることもしない。人に負けないように肩をいからせて生きるのは疲れる。

(心のデボーション5062)

心のデボーション5063

「書をコロサイに居る聖徒、キリストにありて忠實なる兄弟に贈る。願はくは我らの父なる神より賜ふ恩惠と平安と汝らに在らんことを。」 コロサイ1:2   大正文語訳聖書

「コロサイにいる、キリストにある聖徒たち、忠実な兄弟たちへ。わたしたちの父なる神から、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。」 口語訳聖書

 「聖徒」

「聖なる人」とは「信仰の人アブラハムと共に、祝福を受けた」、「信仰による者」の事である。(ガラテヤ3:9)

「地にある聖徒たちには」、「威厳があり」、彼らは「主を恐れ」、「乏しいことがない」。(詩篇16:3; 34:9)

(心のデボーション5063)

心のデボーション5064

「妄りに言をいだし劍をもて刺がごとくする者あり されど智慧ある者の舌は人をいやす」 箴言12:18  大正文語訳聖書

「つるぎをもって刺すように、みだりに言葉を出す者がある、しかし知恵ある人の舌は人をいやす。」 口語訳聖書

 「軽率」

「軽率なことば」は「よく切れる剣」のようだと、この箴言は教える。「軽卒の剣」も色々で、カミソリのように鋭くさくのもあり、ナタでぶった切るのもある。いずれにしても、「その一言」を出してしまうのが人間である。だからといって、軽卒をやめることはできない。思わず出るものなので、やめようとしてもやめられないものである。「軽卒でいこう」と思うのが、自分の軽卒に気づく唯一の方法かもしれない。

(心のデボーション5064)

心のデボーション5065

「すべての勤勞には利益あり されど口唇のことばは貧乏をきたらするのみなり」 箴言14:23  明治元訳聖書

「すべての勤労には利益がある、しかし口先だけの言葉は貧乏をきたらせるだけだ。」 口語訳聖書

 「巧言令色」

孔子は「巧言令色、鮮(すく)なし仁」と言う。しかし、人はしばしば、「巧言令色」に「仁」を感じてしまう。意外な人が「良き人」である。「巧言令色」に間違えられる人は、それだけで損をしている。

(心のデボーション5065)

心のデボーション5066

「われら祈のときに汝らを憶えて、常に汝ら衆人のために神に感謝す」 Ⅰテサロニケ1:2  大正文語訳聖書

「わたしたちは祈の時にあなたがたを覚え、あなたがた一同のことを、いつも神に感謝し、」 口語訳聖書

 「感謝の祈り」

パウロは祈る時、「まず第一に、神に感謝し」(ロマ1:8)、「常に神に感謝する」。(Ⅰテサロニケ1:2) 感謝をもって始める祈りは、感謝によって閉じられる。旧約聖書は神の助けに対して、「感謝のいけにえ」をささげるように教えた。(レビ7:12-13) 「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き者に果せ」。(詩篇50:14)

(心のデボーション5066)

心のデボーション5067

「汝もし患難の日に氣を挫かば汝の力は弱し」 箴言24:10  明治元訳聖書

「もしあなたが悩みの日に気をくじくならば、あなたの力は弱い。」 口語訳聖書

 「落ち込み」

落ち込んでいるときは、きっと落ち込むようなことを考えている。そのようなことを考えないようにすれば落ち込むこともないというわけである。しかし、いつの間にか考えているので、気づいたときには、もう、しっかり落ち込んでいる。箴言は苦難の日に気落ちするのは、力が弱いからだと語る。しかし、苦難の日に気落ちしないほど強い人になりたいとも思わない。せめて、考えすぎないようにしようと思っている。

(心のデボーション5067)

心のデボーション5068

「それ金を愛するは諸般の惡しき事の根なり、ある人々これを慕ひて信仰より迷ひ、さまざまの痛をもて自ら己を刺しとほせり。」 Ⅰテモテ6:10  大正文語訳聖書

「金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。」 口語訳聖書

 「腹のふくれた狐」

イソップ寓話の「腹のふくれた狐」は、餓えた狐が槲(かしわ)の木の穴洞に牧人の置き忘れたパンと肉をみつけ、中に入って食べたが、腹が膨れて穴洞から出られなくなり、困っていると通りがかった狐が「それなら、お前さんが入っていった時のようになるまで、そこで待ってい給え、そうすればやすやすと出られる」と助言する。(「イソップ寓話集」30 山本光雄訳 岩波書店1942/2)

このお話の教訓は「困難なものごとは時が解決する」というものだが、それでは問題は解決しない。「いくら腹がへっていたとしても、穴洞から出られなくなるまで食べるな」というべきではないか。

(心のデボーション5068)

心のデボーション5069

「なんぢら祈るとき、僞善者の如くあらざれ。彼らは人に顯さんとて、會堂や大路の角に立ちて祈ることを好む。誠に汝らに告ぐ、かれらは既にその報を得たり」 マタイ6:5 大正文語訳聖書

「また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。」 口語訳聖書

 「見てもらおうと」

彼らの「祈り」は「見てもらおうとφαίνω」なされる。人々に自分を「輝く、光を放つ、見えるようになる、照らす、現われる、見える、姿を見せる、明らかにする、示す、出現させる、あらわにする、知らせる(φαίνω)」のが目的である。礼拝の中にも偽善者の「街角」はある。 

(心のデボーション5069)

心のデボーション5070

「然ながら義しき者はその道を堅く持ち 手の潔淨き者はますます力を得るなり」 ヨブ17:9  明治元訳聖書

「それでもなお正しい者はその道を堅く保ち、/潔い手をもつ者はますます力を得る。」 口語訳聖書

 「手の清い人」

「潔い手をもつ者はますます力を得る」。(ヨブ17:9)神は「その手の潔いことによって、救われる」(ヨブ22:30) 「手」は外的行為を意味する。「主の山に登るべき者はだれか。その聖所に立つべき者はだれか。手が清く、心のいさぎよい者、その魂がむなしい事に望みをかけない者、偽って誓わない者こそ、その人であるこのような人は主から祝福をうけ、その救の神から義をうける」。(詩篇24:3-5)

(心のデボーション5070)

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