心のデボーション425

デボーション1
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心のデボーション4241

「また忠實なる證人、死人の中より最先に生れ給ひしもの、地の諸王の君なるイエス・キリストより賜ふ恩惠と平安と汝らに在らんことを。願はくは我らを愛し、その血をもて我らを罪より解放ち、」 黙示1:5 大正文語訳聖書

「また、忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、」 口語訳聖書

 「一度限り決定的に」

イエス・キリストは死者の中から呼び戻され、「その血によってわたしたちを罪から解放」された。(黙示1:5)

祥訳聖書は「この〔キリストは〕いつも私たちを愛し、ご自身の血によって私たちを罪から一度〔限り決定的に〕解放し、<自由な者>とし」と訳す。救いは「罪から一度〔限り決定的に〕解放」される経験である。決定的な救いは、その後何度も救われることを求めない。

(心のデボーション4241)

心のデボーション4242

「されど我はなんぢの大能をうたひ清晨にこゑをあげてなんぢの憐憫をうたひまつらん なんぢわが迫りくるしみたる日にたかき櫓となり わが避所となりたまひたればなり」 詩篇59:16  明治元訳聖書

「しかし、わたしはあなたのみ力をうたい、朝には声をあげてみいつくしみを歌います。あなたはわたしの悩みの日にわが高きやぐらとなり、わたしの避け所となられたからです。」 口語訳聖書

 「朝明けの歌」

歌手の加藤登紀子さんは、黒人は足の親指から声を出すと書いている。芯の強い声は足の先から出るのだそうである。(加藤登紀子「日本語の響きで歌いたい」NHKブックス1990/9/1より) 詩人は、朝明けに神の恵みと力を喜び歌う。その声も、やはり、足の先から出るのだろうか。この「朝明けの歌」は、苦しみの日を経た人が全身をつかってうたう癒しの歌である。

(心のデボーション4242)

心のデボーション4243

「汝らを召して其の子われらの主イエス・キリストの交際に入らしめ給ふ神は眞實なる哉。」 Ⅰコリント1:9  大正文語訳聖書

「神は真実なかたである。あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである。」 口語訳聖書

 「キリストとの交わり」

キリスト者は、「神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいた」者である。(Ⅰコリント1:9) 「交わりκοινωνία」は「ある人と共同で何かを行うこと」である。人はイエス・キリストと「共同で何かを行う」ために神に召された。気がついて見れば、「共同」というよりも、イエス・キリストがすべをなされたのにも関わらず、神はそのように仰せられる。

(心のデボーション4243)

心のデボーション4244

「かかる者は我らの主キリストに事へず、反つて己が腹に事へ、また甘き言と媚諂とをもて質朴なる人の心を欺くなり。」 ロマ16:18  大正文語訳聖書

「なぜなら、こうした人々は、わたしたちの主キリストに仕えないで、自分の腹に仕え、そして甘言と美辞とをもって、純朴な人々の心を欺く者どもだからである。」 口語訳聖書

 「なめらかなことば」

「なめらかなことばχρηστολογία」は原文では「親切な」に「いう」というふたつのことばをつなげたものである。                 口先のうまい人のことです。親切ぶって、いかにも思いやりのあることばである。しかし、口先の下手な「なめらかなことば」というのもある。聖書は「親切」について、「口先のことば」を信じない。「親切」は行為として示すべきものだからである。

(心のデボーション4244)

心のデボーション4245

「われら或は患難を受るも爾曹が安慰と救の爲なり此安慰と救は爾曹の中に動きて我儕が受る如き苦を爾曹にも同く忍しむるなり我儕あるひは安慰を受るも亦なんぢらが安慰と救の爲なり」 Ⅱコリント1:6  大正文語訳聖書

「わたしたちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救とのためであり、慰めを受けるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、その慰めは、わたしたちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのである。」 口語訳聖書

 「苦難に会うなら」

「患難θλίβω」は「上から強く圧する、押しつぶす、狭くする」の意。マタイ7:14の「命にいたる門」は狭く、その道は細い(θλίβωὅτι「悩み深く、苦しい」)」。しかし、この「苦難θλίβω」は「慰めと救とのためであり」、「苦難θλίβω」から「慰め」を受ける者は「苦難に耐えさせる力」を受ける。(Ⅱコリント1:6)

(心のデボーション4245)

心のデボーション4246

「智慧ある子は父の敎訓をきき 戯謔者は懲治をきかず」 箴言13:1  明治元訳聖書

「知恵ある子は父の教訓をきく、あざける者は、懲らしめをきかない。」 口語訳聖書

 「手の杖」

トビトは真理と正義の道を歩み、アッシリアに捕囚となった人々をよく助けたが、ある日スズメの糞が目にはいって視力を失う。妻アンナは女の仕事を見出して働いたが、貧しさは彼らを苦しめる。そうした中でトビトは以前に兄弟ガバエルに銀10タラントを貸していたことを思い出し、信頼できる親族のアザリヤと共に息子トビアを貸した金の返済を受けるために送り出す。すると、妻アンナは「なんじ我らの子を送りいだっしか。彼は我らの前に、入るにもいずるにも、我らの手の杖ならずや。わが子の命にくらべ、金はくずに等しきと思え」と抗議する。(旧約聖書外典トビト書5:17) 息子トビアは視力を失ったトビトの文字通り「手の杖」であった。しかし、トビトは親族のアザリヤを「ひとりのよきみ使い」と呼び、息子は「健やかにして再び帰らん」と告げる。それを聞いて妻アンナは「泣くことを止める」。(トビト書5:16-22)

(心のデボーション4246)

心のデボーション4247

「夫たる者よ、汝らその妻を己より弱き器の如くし、知識にしたがひて偕に棲み、生命の恩惠を共に嗣ぐ者として之を貴べ、これ汝らの祈に妨害なからん爲なり。」 Ⅰペテロ3:7  大正文語訳聖書

「夫たる者よ。あなたがたも同じように、女は自分よりも弱い器であることを認めて、知識に従って妻と共に住み、いのちの恵みを共どもに受け継ぐ者として、尊びなさい。それは、あなたがたの祈が妨げられないためである。」 口語訳聖書

 「弱い器」

本当に、妻は夫よりも「弱い器」だろうか。この「弱さ」とは、パウロが「どうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります」と語った「弱さ」のことである。(Ⅱコリント11:30) だからこそ、「弱い器」としての妻を夫は尊敬する。弱いのだから保護されても当然というのは、弱さで相手を思い通りに支配しようとするときに妻が用いる常套手段で、それはとても「強い」。「弱い器ἀσθενεστέρῳ σκεύει」は文字道理には「病める無力な器」の意。

(心のデボーション4247)

心のデボーション4248

「それ木には望あり 假令砍るるとも復芽を出してその枝絶ず」 ヨブ14:7  明治元訳聖書

「木には望みがある。たとい切られてもまた芽をだし、/その若枝は絶えることがない。」 口語訳聖書

 「からくり時計」

ドイツのアウグスブルクの旧市庁舎にある有名なからくり時計は時刻がくると死神が現れて時を打ち、最後に一羽のニワトリが塔の上にある窓から一声鳴いて終わる。

(心のデボーション4248)

心のデボーション4249

「『妻をいだす者は離縁状を與ふべし』と云へることあり」 マタイ5:31 大正文語訳聖書

「また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。」 口語訳聖書

 「離婚」

離婚からは「整理をつけられない感情が生じる」と指摘されている。(ジョン・W・ジェイムズ/ラッセル・フリードマン『悲しみにさよならを言う方法』飛鳥新社2002/4) その離婚が理不尽な夫婦関係から解き放たれるものであるとしても、なお、その魂は未解決の問題を抱えることになることを忘れてはならない。

(心のデボーション4249)

心のデボーション4250

「妓婦ラハブおよびその父の家の一族と彼に屬る一切の者とはヨシユアこれを生し存ければラハブは今日までイスラエルの中に住をる是はヨシユアがヱリコを窺はせんとて遣はしし使者を匿したるに因てなり 」 ヨシュア6:15  明治元訳聖書

「しかし、遊女ラハブとその父の家の一族と彼女に属するすべてのものとは、ヨシュアが生かしておいたので、ラハブは今日までイスラエルのうちに住んでいる。これはヨシュアがエリコを探らせるためにつかわした使者たちをかくまったためである。」 口語訳聖書 

 「猛女ラハブ」

「ラハブ」はエリコの城壁に住む「遊女」で、その名「激烈、猛悪」の暗示するような人生を送ったが、イスラエルのカナン入国の手引きをしてイスラエルに貢献した。激烈な人の回心は激烈な働きをすることがある。 

ラハブはこの時の功績が認められイスラエル人の中で暮らすようになった。(ヨシュア6:25) その後、どういう経緯かわからないが、我々はマタイ1:5で、ラハブはサルモンの妻となり、ボアズを産んだことを知ることになる。

(心のデボーション4250)

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